「トラポン誕生の思い出」 故木村重雄より
トラポンの歴史をよく知らない若いTTCJ会員を含めここでトラポンの誕生についてご紹介しましょう。今は故人となられた木村重雄氏が1968年5月30日にパレスホテルで開催された月例会に置いて会員200名を前に「トラポンの誕生」と題して講演をされた記録が残っていたのでここに簡単にご披露したいと思います。故木村氏は当時JNTOの理事をされておられましたが、実はトラポン創設者の1人でもありました。
「トラポン」の歴史を語る前に、戦前に存在した「スタークラブ(Star Club)」について知っておく必要があります。スタークラブは当時の鉄道省国際観光局首唱のもとに1938年に創設されました。会員には汽船(Steamship)、旅行(Travel)、航空(Airline)、鉄道(Railway)業界の外国人を含む20名内外の代表者を会員とし、年4回程度の会合を持っていました。スタークラブは汽船のS,旅行のT、航空のA、鉄道のRの頭文字をとって名付けられた訳です。
太平洋戦争開始とともにスタークラブは自然解消となりました。そして戦争は終結となり1946年の暮れ、スタークラブの集いを再建することになりました。当時は占領下であったため、このような団体を組織することは至難の業でありましたが、努力の結果、1947年11月4人の米国人、2人の英国人、6人の日本人が木造2階建ての旧交通公社ビルに集まり、当時JTBの横田昭理事から本会合の趣旨が説明され定款により役員の選出が行われました。これが現在の「トラポン」の誕生日です。
まず名称について、アメリカの数都市で使っているBons Vivants,または国際的に有名なSquall Club,あるいは戦前に用いられたStar Clubなどいくつかの名称が候補に上げられましたが、サンフランシスコで当時使っていたTransportation Clubが一番無難であるとの理由でこれに決まりました。もしその当時、Squall
Clubに決定していたら現在の東京スコール・クラブは存在しなかったことになります。
TCJ役員として会長にはCarlGabrielson氏(APL)、第一副会長に故生駒実(NYK)、第二副会長に犬丸徹三氏、トレジャラーはBobMargan氏(NWA)、セクレタリーに横田巌氏(JTB)、アシスタントセクレタリー兼アシスタントトレジャーに私(木村重雄)が就任。
当時、各社から派遣されても一応は占領軍に席を置いていたため、メンバー、役員とも外人は軍属服を着用していました。食事には洋酒はSPLの船から、サンドイッチは米空軍のフライト・キッチンからの持ち込み、日本側としてはコーヒーと砂糖、ミルクを上野のヤミ市から買ってきて支給しました。
会合は毎月1回、定款にある通り毎月最終の木曜日に開かれ、互いに交歓を図り、国際観光事業の再建、特にInbound Trafficの再建について意見交換を行い、トラポン創立の趣旨に始まって活発に対占領軍への工作を進めていました。
トラポン創立からまる1カ月、1947年12月、占領軍最高司令官から外国人観光客の導入を許可するメモランダムが発給され、戦後初の549名の観光団体がAPLのGeneral Gordon号で横浜に入港しました。
「トラポン」誕生の年には入国外客数は実に47万7千名。
「トラポン」会員の果たした役割は実に大きい。